<嫌われる勇気>② 第2夜「すべての悩みは対人関係」前半
こんばんは!!
本日もお越し頂きまして、ありがとうございます!
「嫌われる勇気」
2013年12月の発売以降、累計180万部を超えた大ベストセラーの本書。
皆さんにも興味を持って頂きたく、まとめております。
当ブログを参考にして頂き、ご興味が沸きましたら、本書を読んでみて下さいませ。
今日は第2夜「すべての悩みは対人関係」前半です。
どうぞ、最後までお付き合い下さいませ
以下本文
世界は何処までもシンプルである
複雑に感じるなら、自身が世界を複雑にしている
世界がどうあるかでは無く、自身がどうあるかであり、世界を直視するパラダイムシフトを行う勇気があれば、人は変われ、幸福になることが出来る
第2夜 「すべての悩みは対人関係」前半
私の悩みは自分のことを好きになれないという人が居たとします。何故嫌いなのかと問うと、短所だらけだからだといいます。次々と短所を上げ連ね、「自分自身が嫌いな卑屈で面倒くさい人間が身近にいたら、誰も付き合いたくないでしょう」と発言しました。
さて、この人の本当の「目的」はなんなのでしょうか?
他の例の話をしましょう。
とある人が、人前に出ると赤面してしまうので赤面症を治して欲しいと、カウンセリングを受けに来たとします。
赤面症が治ったら何がしたいですか?と問うと、「実は気持ちをうち明けられない好きな人がいて、赤面症が治った暁には告白をしてお付き合いしたいのだ」と答えたとします。
お話を伺うに、この人が一番怖ろしいこと・避けたいことは、この好きな人に振られることです。失恋によって、存在や可能性を否定されることです。
この人は赤面症と告白を関連づけています。赤面症をもっている限り、「私が好きな人とお付き合い出来ないのは、この赤面症があるからだ」と考えることが可能です。そして、告白の勇気を振り絞らずに済むし、振られた理由にも出来る。赤面症が必要なので、赤面症なのです。
故に、赤面症を治すのではなく、いまの自分を受け入れてもらい、たとえ結果がどうであったとしても前に踏みだす勇気をもってもらう、「勇気づけ」が必要となるのです。
さて、自分が嫌いだと言った初めの方は「自分自身が嫌いな卑屈で面倒くさい人間が身近にいたら、誰も付き合いたくないでしょう」と発言しました。
赤面症の人は振られることを怖れてました。ではこの人は何を怖れているのでしょう?
他者から否定されることを怖れています。他者に拒絶されることを怖れています。
この人の「目的」は、「他者との関係の中で傷つかない」ことなのです。
「悩みを消し去るのは、宇宙の中に唯一人で生きるしかない」とアドラーは説きます。
一人で生きたら孤独に悩まされるのではないか? いいえ、孤独を感じるのは他者がいるからです。記憶も含めて「個人」のみになった時、孤独と言う概念さえ生まれず、言葉も論理も共通感覚も必要なくなります。よって理論上では「宇宙の中に唯一人で生きることが出来れば、悩みはなくなる」のです。
「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」とアドラーは説きます。
これがアドラー心理学の根底に流れる概念です。世界に対人関係が無くなってしまえば、あらゆる悩みも消え去ってしまうと考えるのです。
自己に向けられた悩み、個人だけで完結する悩み、いわいる内面の悩み。それは存在しません。どんな種類の悩みでさえ、必ず人の影が介在する。これがアドラー心理学です。
ここを受け容れられるかが、アドラー心理学を理解する為に、重要なポイントです。
過去の私は、これを受け容れる事が出来ず、アドラー心理学の本を手に取りませんでした。
自分が抱える問題や研鑽したい内面は、対人関係なんて世俗的な事ではないのだと信じたかったのです。
しかし、人間とは人との間に生きるもの。全ての事柄に、人と人の繋がりがあり、其処をどの様に捉えるかで、全てが変わる。これはアドラー心理学のみならず、世界に普及している様々な教えの根幹なのです。表現は違えども、同じ事を示しています。
世界は何処までも、シンプルなのです。
<劣等感>・・・価値がより少ない感覚
「劣等感」とは自らの価値判断に関わる言葉。価値とは、どのような意味づけをほどこすか?どのような価値をあたえるか?で変わってきます。
短所として感じられる「劣等感」とは、他者との比較のなかで生まれた主観的な「劣等感」であり、それは客観的事実ではないのです。主観的な思いこみです。
客観的な事実を動かす事は出来ませんが、主観的な解釈はいくらでも動かすことが可能です。
そして価値とは社会的な文脈の上で成立しています。紙幣やダイヤモンドなどは、ただの紙と石です。それに社会的な共通感覚が、価値を与えます。
世界に自分以外存在しなければ、その価値の解釈は変わってしまいます。つまり、価値の問題もまた最終的には対人関係に還元されるのです。
さて、この劣等感に対を成すのが「優位性の追求」です。
人は無力な存在として、この世に生を受け、そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。
「向上したいと願うこと」「理想的な状態を追求すること」
アドラーはこれを「優勢の欲求」と呼びました。
人は何かしらの理想や目標を掲げ、「優位性を追求」します。
しかし、理想に到達できていない自分に対し、劣っているような感覚、「劣等感」を抱くのです。
「優位性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激ある」とアドラーは語ります。優性の追求のみならず、劣等感も成長の促進剤となるのです。
理想と現状のギャップが「劣等感」を生み出します。このギャップは、こんな筈ではないというエネルギーとなります。判りやすいのが、輪ゴムの原理です。理想と現状に差があるほど、輪ゴムにテンションが掛かります。理想に向かう原動力となるのです。
現状に満足することなく、一歩でも理想に近づこうとする劣等感のあり方は、素晴らしいのです。
しかし、逆の働きも生まれる場合があります。理想と現実のギャップに諦めてしまったり、自分には頑張ったところで無理と思ったりなど、現状に引き戻す状態、現状肯定の状態。
「Aであるから、Bはできない」
自らの「劣等感」を、言い訳に使い出した状態の事を、「劣等コンプレックス」と呼びます。
この「劣等コンプレックス」には「見せかけの因果律」が関係しています。
本来はなにも因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかの様に自らを説明し、納得させてしまうのです。
例として、「私は学歴が低いから、成功できない」と考えているのなら、それは「成功できない」のではなく、「成功したくない」のです。
一歩前に出ることが怖い、努力をしたくない、現状で享受している楽しみを犠牲にしたくない等々、ライフスタイルを変える「勇気」が無いのです。
「劣等感」は成長と努力の促進剤です。
「劣等コンプレックス」が問題なのです。
この2つは混合してせず、しっかり分けて考え無ければなりません。
「劣等感」についてアドラーは「劣等感を長く持つ続けることを我慢できる人は誰もいない」と指摘します。
「劣等感」が有る状態とは、現状に欠如を感じている状態です。この欠如をどのように補償いくか?
健全な方法は、前に進む「勇気」をもって、努力と成長を通じて補償しようとすることです。
この「勇気」がない人は、「AだからBができない」と「劣等コンプレックス」に陥ります。そして、その状態に我慢できず、Aさえなければ私は有能であり価値があるのだと、自らの有能さを暗示し始めるのです。この様に、「劣等コンプレックス」は、次の特殊な心理状態に発展することがあります。
理想と現実のギャップの強い「劣等感」に苦しみながらも、努力や成長といった健全な手段で補償する勇気が無ない。更に「AだからBができない」と「劣等コンプレックス」にも絶えられない。「できない自分」を受け容れられない。もっと安直な手段で補償しよう。
あたかも自分が優れているかの様に振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。
これが「優越コンプレックス」です。
具体例としては、先ずは「権威づけ」です
権力者、人気者、著名人、リーダー等々と懇意であることをアピールする。交友関係の広いことの誇示、服飾品の過度なブランド信仰、役職などへの執着等々
他の事例として、手柄の自慢、過去の栄光、他者貢献アピール、俺論誇示等々
自分が優れているかの様に見せかけ、「偽りの優越感」を得ようとしているのです
「自慢話をしている人がいれば、それは劣等感を感じているからに過ぎない」とアドラーは指摘します。わざわざ言葉にして自慢している人は、自分に自信がないのです。
自慢は「劣等感」の裏返し。自信を持っている人は自慢などしません。「劣等感」が強いから、自分の優れていることを誇示しようとする。周囲が認めてくれないと怖れている。完全に「優越コンプレックス」です
自分にも思い当たる節があり、思い返すとその当時が恥ずかしくなります。
この行為に及んでいる時は、「優越コンプレックス」での行動と気が付いてないのです。
逆にこの行為を他人からされた時は、非常に違和感で、不愉快で、気持ち悪さを感じます。
これは理解することで、意識にあがり、選択しないことが出来るようになるのです。
最後に自慢に関する複雑な事例があります。「不幸自慢」です。
不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。
自らに降りかかった不幸を、自慢の様に語り、慰めようと変化を促すと、「私の気持ちがわからない」と救いの手を払いのけるような人です。
自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。自分が如何に不幸で、如何に苦しんでいるかを訴えることで周囲に心配をさせ、その言動を束縛し、支配しようとするのです。
「私たちの文化においては、弱さは非常に強くて権力がある」とアドラーが指摘しているほどです。
アドラーはいいます。「私たちの文化のなかで、誰が一番強いかと自問すれば、赤ん坊であるというのが論理的な答えだろう。赤ん坊は支配するが、支配されることはない」
自らの不幸を「特別」であるための武器として使っている限り、その人は永遠に不幸を必要とする事になります。
私もこのタイプの人に非常に悩まされた経験があります。
思わず親身に対応してしまうと、本当に痛い目をみます。
肯定をし続けると喜ぶのですが、手を差し伸べると反転し攻撃してくるのです。
当然です。このタイプの人は救って欲しいのではなく、不幸で居続けたいのです。
関わらないのが一番なのですが、お付き合いせざる得ない場合は、第3夜でお話しする課題の分離が大切になります。
」
第2夜「すべての悩みは対人関係」は未だ続くのですが、大分長くなってしまいましたので、本日は此処までに致します。
次回は第2夜「すべての悩みは対人関係」後半をまとめていきます。
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。